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学校という組織(2)(私立中学、私立高校) [アンおばさんの教育ミニコラム]

前回は、都立チャレンジ高校のここ数年の変化について、アンなりの見解を述べてみましたが、時々面接を手伝っていただいていた元公立中学の先生から、それについての的確な意見をいただきました。

「エンカレッジスクールは登校に自信ありの生徒、チャレンジ高校は思考に自信ありの生徒と、ハッキリ区別してきたように思います」

上記の先生の言葉で、核心を突いていると思ったのは、「チャレンジ高校は思考に自信ありの生徒」という部分です。これまで、チャレンジ高校の受験生に関わってきて、「思考力」(言語で考える力といってもいいかもしれません)がない生徒は、合格するのが難しいと思っていたからです。
(それ以上に、面接では見た目ややる気がポイントになるとは思っていますが)


ところで、今回は都立チャレンジ高校ではなく、私立中学と高校を、学校という組織の面から考えてみることにしました。
昨年は、チャレンジ高校の受験生は少なかったのですが、私立の中学生に英語を教えたり(現在も続いていますが)、私立高校生に関わったり、私立中学、高校の現状について家庭教師の先生から話を聞いたりする中で、学校側の対応について納得のいかないものを感じていました。

公立中学であれば十分についていけると思われるレベルの生徒に対しても、私立では成績が振るわないと、ご家庭で何とかしてくださいと言われるので、保護者は塾を探したり、家庭教師を頼んだりして対応を余儀なくされます。最近では、それほどレベルの高くない私立の中学でも、先取り、先取りで、授業の進み方も早いので、入学後も必死に勉強しなければならないケースも多いと聞いています。そんな勉強オンリィーの生活に適応出来る生徒はいいのですが、勉強に苦手意識をもっていたり、「何のために勉強するのか」などと考えてしまう生徒は、学校に通うこと自体が苦痛になって、不登校の原因にもなりかねません。そういう生徒に対して、学校側の反応が冷ややかなのも気になるところです。

勉強が全てではないはずなのに、その部分で学校または保護者からだめだという烙印を押されると、鈍感力の働かない感受性の豊かな生徒は自己肯定感が低くなり、やらない自分、出来ない自分自身を責めて苦しむことになり、年齢が上がるにつれて事態は深刻になっていきます。

現在、アンのところに通って来ている中3の生徒の学校は、塾に行ったり、家庭教師がついていることを前提に授業を進めているといいます。内容も高校の範囲まで入っているので、幼い頃から自発的に勉強する習慣がついていたり、やるべきことがわかっていて、参考書や問題集を使って自分で理解しながら計画を立てて勉強することが出来る生徒でないと、ついていくのは難しいと思いました。大学の付属校なのですが、他大学に進学する生徒の割合も高く、進学実績をみると指定校推薦でも難関大学へ多数の合格者を出しています。つまり、そのレベルに見合う学力がついているから、指定校推薦も多いのだと推定出来ます。


以前は、と言っても10数年以上前のことになると思いますが、私立の中学、高校は公立の学校より面倒見がよく、レベルの高い中高一貫校に入れば、塾に通わなくても難関大学に入れるという時代があったかと思いますが、現在は当てはまらないと考えるのが妥当だと思います。
つまり、ある程度の私立中学に入学したら、その後の勉強も大変で、塾や家庭教師をつけることを前提に考えておいた方が間違いないということです。少子化の影響で、どの学校も評価を上げなければ生き残れないと考えているため、生徒への要求も高くならざるを得ないのだと思います。


そのため、勉強の苦手な生徒に対しては排除したり、自己責任に帰する学校側の姿勢にアンは少なからぬ疑問をもっていました。ところが、つい先頃、斎藤 孝さんの「受験に欠かせない力をきたえよう ~日本語力と身体感覚~」という講演を聞き、客観性に欠けていたことに気づかされました。

斎藤 孝さんによると、「学校の授業は、上手なテニスのプレイヤーを見ているだけ。見ているだけでは上手にならない」とのことでした。

上手になるためには、つまり出来るようになるためには、繰り返しの勉強が必要で、東大受験生は、「最低でも同じ問題集を5回はやる。5回やらない人の話は聞かない」、勉強時間についても触れ、「結構やっているんです。3時間などと威張って言っている生徒の話は論外」――

勉強している時も、「ぼうっとやらないで意識をはっきりさせてやる」、「頭の中の作業員を増やす」、英語の勉強であれば、「三単現のsをつけないと気持ちが悪い。不定詞の後に動詞がこないと気持ちが悪い」というように、感覚的にわかるようになるまで反復してやる――

勉強への取り組み方としては、「勉強は寒中水泳と同じで、とっかかりが一番いやなので、ストポッチを使っての『5分間勉強法』をやってみて、まず5分やってみたら、あと5分、また5分というように増やしていく」、「やる前から、やらない、出来ないという選択肢はない」、「イチローのようにこの1球にかける。先のことは考えずに今に集中する」――全て納得出来る内容でした。

何が言いたかったというと、私立中学、高校で理想の未来を作っていきたいと思ったら、上記の斎藤 孝さんの言うように勉強すること、1人では無理な場合、どういう段取りで、何をやったらいいのかわからない場合は、塾や家庭教師につくしかないのだと思いました。
学校という組織を批判しても何も変わらないからです。


いずれにしても、都立でも私立でも、学校という組織に重きを置きすぎないで、生徒自身の能力、またそれぞれのご家庭の経済状態も踏まえながら、より自分に合った学校に進学すること、そのための努力は惜しまないこと、その頑張りが後々の力になるように取り組むことが大切だと、アンは思っています。

英語指導に関しては、私立中学、私立高校の英語のやり直しから始め、大学受験または英検2級以上の英語の力をつけたい生徒、ある程度はやる気のある生徒に来てほしいと思っています。(全くやる気のない生徒に、出来るようになってもらうには限界があるからです)



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学校という組織(都立チャレンジ高校) [アンおばさんの教育ミニコラム]

アンはこれまで、不登校、学力不振の生徒の進学先としてはチャレンジ高校が一番だと思っていました。おとなしく真面目な生徒の多い、雰囲気のいい学校で、都立なので保護者の経済的な負担も少なく、過去は問わずにこれから頑張ろうとしている生徒を応援する学校だと認識していたからです。

アンの家庭塾に来なくても合格する生徒はいくらでもいると思いますが、縁あって来てくれた生徒に対しては、不登校なら、まず自分の家から外の世界に出て、家族以外の他人と関わりを持つこと、きちんと通ってくることで高校に通える下地を作ってほしいと思っていました。受験に必要な志願申告書や作文、面接の練習は次の段階になります。
学力不振の生徒なら、まず机に向かって勉強する習慣をつけること、勉強に対する抵抗感を志願申告書や作文の練習をすることで少しずつ減らしていくことをテーマにしていました。勉強嫌いで、1日に30分勉強するのも苦痛なようでは、チャレンジする生徒を求めているチャレンジ高校には合わない生徒だと思っていたからです。

その観点から見れば、家庭塾で頑張った生徒は自信をもってチャレンジ高校に送り出せるし、チャレンジ高校もそのような生徒のためにある高校だと考えていました。

ところが、ここ2、3年は、アンのチャレンジ高校に対する印象が変わってきています。設立当初のチャレンジ高校の理念が薄らいできているように感じられるのです。

学校の先生になった元生徒から、学校にとって一番大事なのは、1に組織、2に学年、3にクラス、4に生徒と聞いたことがありますが、チャレンジ高校は一般の高校と違い、1に生徒とまではいかないまでも、生徒を大事にしてくれる学校だと思っていました。
それが一般の高校と同じように、組織を優先するようになってきたような気がしています。学力にシフトして大学への進学率を伸ばしたり、学力不振よりも頭のいい生徒を多くとって、学校の評価を上げることを優先したり(これが生徒のためなら全く問題はないのですが、落ちこぼれや、卒業出来ない生徒が増えていくことにもつながっていきます)、全日制からの先生が以前より多くなり、生徒に情熱をもって向かう先生が少なくなっている印象を受けます。中には、チャレンジ高校に不本意ながら赴任して、生徒に偏見を持っていたり、やる気の感じられない先生もいるという声を卒業生や在校生、保護者から聞く機会も増えてきました。

7年ほど前に、アンが手に入れた情報によると、チャレンジ高校が求めている生徒は、本気で入学したいと思っている生徒、頑張る気持ちのある生徒でした。そのために受験に必要な志願申告書や作文、面接も建前ではなく、本音と本気で向かえば合格出来るという印象でした。
けれど、生徒一人ひとりより、一般の高校と同じように組織第一で、本音や本気よりも建前が重視されるようになってきたように思います。

具体的には、不登校の生徒なら、これまで朝起きられなかったり、昼夜逆転していたり、ゲームやSNSで1日の大半を過ごしていたとしても、「入学したら、毎日、学校に通えますか」と問われたら、「はい」と答えられる生徒。学力不振で、これまで家でほとんど勉強してこなかった生徒でも、「入学したら、一生懸命に勉強します」と、言える生徒です。嘘は見抜かれてしまいますから、自信がなくても、目に力を込めてやる気を示せばOKです。
上手な演技が出来ればいいということになるかもしれません。

上記の例はアンの推測にすぎませんが、全く的が外れていたとしたら、その方がアンにとってはうれしいことです。
チャレンジ高校が組織を重視する一般の高校に近くなって来ているとしたら、そこに向けて生徒と共に努力しようとする気持ちも半減します。

今年、チャレンジ高校に不合格になった生徒の作文の評価があまりに低かったこと(面接はともかくとして、過去問に準じた問題ならこれまでの生徒はかなりの得点を取れていたし、今年の生徒はもともと作文が不得意ではありませんでした)、彼が受験した組織としての学校に合わなかったと判断されたのではないかと感じられたこと、春休み中にチャレンジ高校をやめたいと相談に来た生徒が出たこと(学校の体質に嫌気がさしているようでした)も、アンの気持ちの変化に関係があると思っています。

それでも、これからもチャレンジ高校の受験を希望する生徒には、これまでと変わらずにやっていきたいと思っています。
ただ、本音より建前を重視したり、合格するために嘘を教えたり、演技することを指導の柱にはしたくないと思っています。

繰り返しになりますが、不登校の生徒なら、家庭塾に通って来ることで少しずつ活力を取り戻し、高校で再び不登校にならないようにすること、学力不振の生徒なら、家庭塾で勉強に向かう姿勢や態度を身につけ、嘘ではなく、「高校に入学したら勉強も頑張る」と言える自分を作ってもらうことです。 そうでないと、チャレンジ高校に合格しても、なかなか卒業出来なかったり、卒業出来たとしても、その先の進路は危ういと思っているからです。


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怠けている子と学ぶことに困難を感じている子 [アンおばさんの教育ミニコラム]


アンが家庭教師として通っている生徒と、「家庭塾」に通ってきている生徒には大きく分けて2種類のタイプがあります。
「怠けている生徒」と「学ぶことに困難を感じている生徒」です。
「怠けている生徒」は文字通り怠けている生徒で、やれば出来るはずなのに、やる気がない、面倒くさがり、勉強が嫌い、またはある時点から勉強がわからなくなりやる気がなくなった、さらに家で勉強する習慣が全くなかったなど、原因はいろいろ考えられます。
「学ぶことに困難を感じている生徒」とは、落ち着いて座っていることが出来ない、集中力が長続きしない、根気がない、すぐにあきらめてしまう、こだわり感が強く思考がある時点で止まってしまっている、元気な時より体の不調を訴えるときの方が多い、つねに心に問題を抱えている、字が浮いて見えたり、ピントが合わないために読むことに困難を感じている、文字の形をつかみにくい、黒板の字を写すのが困難、今さっきやったことをすぐに忘れてしまう、努力しても努力しても成果が上がらない、ゆっくりと1対1で教われば理解できるが集団の中ではついていけない、人の感情や表情を読むことが苦手で周囲と打ち解けられない、好きなことをやるには問題はないが、嫌いなことや苦手なことをするのに人の何倍も苦痛を感じる等など、数えあげたらきりがありません。この中には軽度の発達障害も含まれていますが、これを障害と見るか、そういう特徴をもった子どもと見るかは意見の分かれるところだと思います。
また、どちらとも言えずにグレーゾーンに入る子どももいるかと思います。

アン自身はどうかと言えば「よくわからない」というのが実際のところです。
「怠けている子」と「学ぶことに困難を感じている子」の境目は微妙なところだと思います。怠けている子の中に、心や体の問題を抱えている生徒も含まれているからです。

ただ一つはっきり言えることは、やれば出来る「怠けている子」でも、「学ぶことに困難を感じている子」でも、やらなければ出来るようにはならないということです。あきらめてしまっては何も始まらないということです。
そして、どちらの子にとっても「やって出来るようにする」というのは、本人にとって苦しいことですし、教える側にとっても相当の忍耐力が必要になります。
ですから、アンは「家庭塾に来たらどんな生徒も出来るようになります」とか「必ず志望校に合格させます」というようなことを、簡単に言うことはできません。
それでも、どうしたら生徒が出来るようになるか、志望校に合格できるか、努力するということはどういうことなのか、その生徒なりの力を出し切って結果を出してもらうこと(不本意な結果でも)、自分を否定しないで未来に夢を持てるようになってほしいとは、いつも思っています。

そのために出来ることといったら、生徒を認めること、生徒それぞれにに合わせて教え方を工夫したり、少しずつやっていったり、何十回でも繰り返しやっていくぐらいのことです。そして、他人と比べてではなく、今までの自分と比べて、わかるようになった、出来るようになった、またはやる気が出たということをまず目標にして、それができたら学力アップや志望校の合格につなげていくことを目指しています。

ところで、「不登校、学力不振の家庭塾」の看板をアンは出していません。常識的に見れば偏見を持たれると思うからです。
けれど、アンの塾に来る生徒は実際にはみんなやさしくて素直ないい子たちばかりです。それだけに、今の学校生活の中では居心地の悪さやストレスを感じてしまうのだと思います。決して偏見をもって見られるような子どもたちではありません。わがままな子であったり、怠けたくて怠けている子ではなく、器用には生きられない生きづらさを感じている「困っている子」なのだと思います。



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「私が」から「あなたが」へ [アンおばさんの教育ミニコラム]

毎朝、楽しみに見ていたNHKの朝ドラ「ちりとてちん」が、先週の土曜日で終わりました。
視聴率はあまり振るわなかったようですが、初回から最終回まで変わらずに貫かれていたテーマに、私は共感していました。

それは前回のブログ記事「山村留学先のご紹介」にも通じるものでした。
日々の平凡な暮らしを積み重ねていくことが、大切だということです。

けれど、高校を卒業したばかりの主人公の喜代美には、それがわかるはずもなく、「スポットライトを浴びて、輝きたい。脇役のまま人生を終わりたくない」と、心の底から思っていました。
そして、子どものことや、人のことばかりを考えて暮らしている自分の母親に向かって、「お母ちゃんのようになりたくない」という言葉をぶつけ、家を飛び出して、故郷の福井から大阪に向かいます。
わが子に、自分の生き方を否定された喜代美の母親は何も言いませんでした。

喜代美くらいの年代の少女が、母親の生き方を否定したり、批判的に見ることはよくあることだと思います。
そうやって、親を踏み台にしたり、親を乗り越えて、自分の未来を築いていこうと思うことは、悪いことではなく、むしろいいことだと思います。
親は、子どもが自分のやりたいことを見つけて、楽しく、幸せに暮らしてくれたら、それだけでうれしいからです。
子どもの悲しそうな顔や、つらい顔は、できれば見たくないからです。
喜代美の母親もまさにそんな母親でした。

大阪に出た喜代美は、自分のやりたいことを見つけて、10年以上の修業を積み、女流落語家になります。その先には、これまで以上に輝いたスポットライトを浴びる人生が待っているはずでした。
ところが、結婚した兄弟子との間に、子どもが授かったことがわかると、喜代美は潔く落語をやめる決心をします。
自分の母親のように、子どもや、周りにいる人間の世話をして、周囲を明るくする人生を送りたいと思ったからです。
「お母ちゃんは太陽だったんだ」と言いながら、昔、母親を傷つけたことを謝ります。

喜代美の母親にかぎらず、主婦や母親というのは、評価されることの少ない存在です。
日々の、平凡で、たいしておもしろくもない生活を、延々と続けているだけなのですから……。
誰からも評価されなくて、思うようにいかない子育てに疲れ果てて、虚しくなってしまうことも間々あると思います。

けれど、毎日、毎日、おもしろくもない(家事や子育てが大好きという人もいるかもしれませんが、そう多くはないと、私は勝手に思っています)ことを、繰り返しやり続けることは、簡単なことではありません。まして、子育てとなると、すぐに結果が出るものでもなく、喜代美のように30歳ちょっと出たくらいで、母親のすごさに気づいたら上等だといえるかもしれません。

ここで注目したいのは、喜代美の母親が、自分のことを太陽だと思っているわけでもないし、自分を犠牲にして、人のためにだけ生きているわけではないことです。
喜代美の母親は、ごく自然に、楽しそうにそれをやっています。

「私が」は後回しにして、「子どもの笑った顔がみたい」「あなたにしあわせになってほしいと」と、「私が」より「あなたが」を優先して考えます。
喜代美は、そんな母親の生き方が「豊か」だと気づくのです。

だいぶ昔のことになりますが、子どもがいて、なおかつ輝いている女優さんがいました。
私の子育て真っ最中の頃のことで、あれだけ忙しく仕事をして、輝いていたら、まだ幼い子どもたちは輝けないのではないかと、ふと思ったことを覚えています。
光があれば、必ず陰もできると思ったからです。
私の危惧は当たってしまい、彼女の子どもは犯罪者になってしまいました。

今の世の中、「あなた」より「私が」ばかりが、はびこっているような気がします。
有り余るお金を持っている人も、それで豪邸を建てたり、きらびやかなモノで飾ったりして、さまざまな「あなた」がいることに気づこうとさえしていません。
莫大な利益を上げている大企業も、さらなる競争へと突き進んでいくだけで、社員のことを大切にしていません。
政治家はもっとひどいです。自分が得することだけを考えて、国民のことなど全く考えていないように見えます。

それに比べると、「私が」より、「子どもが」や「あなた」を考えて、悩んだり、苦しんだりしながらも、子どもや家族を、気づかないところで支えている女性は、エライと思います。

毎日の何気ない暮らしを、ていねいに大切に過ごしましょう。
そして、自分の子どもに、「豊か」だと感じてもらえる生き方ができたらいいですね。


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「斉藤さん」 [アンおばさんの教育ミニコラム]

原作が漫画本だというテレビドラマ「斉藤さん(毎週水曜日、午後10時~日本テレビ)」を初回から見ています。
幼稚園に通う子どもを持つ斉藤さんは、相手が誰であっても、おかしいことはおかしい、間違っていることは間違っていると言えるお母さんです。

前回までの内容は、幼稚園に隣接する高校の生徒たちが、度々、園庭に物を投げ込んだり、落書きをしたり、園児たちにちょっかいを出すなどのいやがらせをしてきました。
そんな彼らに対して、斉藤さんは、毅然と注意をしてきました。

ところが、問題行動を起こす生徒のリーダの父親が市会議員であることや、注意をすると、かえって生徒たちをエスカレートさせて園児たちの身に危険が及ぶからという理由から、園長も園ママたちも、斉藤さんに「何もしないように」と迫ります。
見て見ぬふりをするように言うのです。
斉藤さんには、それが出来ません。
「悪いことをしたら謝る」のは、当たり前のことだと思っているからです。
また、子どもが悪いことをしたら、注意するのは大人の責任とも考えています。

昨夜の内容は、子どもたちの間でポータブルゲーム機が流行って、クラスで持っていないのは斉藤さんの子と、斉藤さんの考えに共感して、斉藤さんの友だちになった真野さんの子と、もう一人の子と、合わせて3人だけという設定からスタートしました。
「子どもの機嫌を取るのは簡単だし、楽だけど、私は買わない」と、斉藤さんは言いました。

若くて、まだ母親になって日も浅いというのに、斉藤さんのように信念をもって子育てが出来たとしたら、それはすばらしいことだと思います。
斉藤さんのようでありたいと思いながらその勇気も持てずに、かと言って、斉藤さんを目の敵にしている他の母親たちにも同調できずに、うじうじしてあれこれ悩む真野さんが、一般的な母親の姿なのではないかという気がしました。

それから、クラスの子どものゲーム機が盗まれて、斉藤さんの子が、盗んだ友だちをかばって、下駄箱にそっとゲーム機を置きました。
ここでも、園長や園ママたちは、ゲーム機は戻ってきたのだからそれでいいと、事をうやむやのうちに処理しようとします。
斉藤さんは反対します。
やはり、「悪いことをしたら、それを認めて謝る」ことは、子どもが大きかろうと、小さかろうと関係ないと言うのです。

私は斉藤さんの考えに賛成です。
自分の子どもが悪いことをして、それをなかったことにしてしまったら、子どもは何を判断基準にして生活していったらよいかわからなくなるでしょうし、どこかで親を信用できなくなると思うからです。
いいことと、悪いことの判断だけは、しっかりと伝えておきたいものです。

ところで、何が善で、何が悪なのかは、判断の分かれるところだと思います。
私は、自分の心と体を傷つけること、同じように他人の心と体を傷つけることも悪いことだと思っています。
ですから、「自分なんて、何をやってもだめだ」と思うことも、自分の心を傷つけていることになるので、できればしてほしくないと思っています。
みんなそれぞれに選ばれて生まれてきたのですから、生まれてきた時点でだめな人間なんて一人もいないと思うからです。



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不登校の子は元気? [アンおばさんの教育ミニコラム]

「不登校の子は元気」というのは、チャレンジ高校を目指して、「家庭塾」に通って来ている生徒が言った言葉です。
さらに、生徒は、「ふつうに学校に行っている生徒は、みんなと合わせなければならないので、元気がなくなるんです」と、説明も付け加えてくれました。

私は、“なるほどね”と感心しながら、おもしろい意見だと思いました。
学校に行っていても、いつも友達の顔色をうかがいながらびくびくしていたり、地のままの自分を出していたら、友だちに嫌われるのではないかと思って自分を抑え込んだり、したくもないのに自分を守るために誰かを馬鹿にして笑ったりしていたら、元気ではいられなくなるケースも十分にあり得ると思ったからです。
みんなと同じでなければいけない、目立ってはいけないと、子どもたちは身をもって感じているようです。
事実、私がこれまで関わった生徒の顔を思い浮かべてみても、学校に行っていても元気のない子は、少なからずいました。

そうは言いながら、「不登校の子は元気」だと、断定するわけにはいきません。
けれど、「不登校の子は元気がない」と、決めつけるのも間違いだと思います。
同じように、「不登校の子は暗い」と思うのも偏見だと思います。

「不登校の子は元気」と言っていた生徒は、「不登校の子は、暗いか、明るすぎるかなんですよね」と言いながら、「明るすぎても、浮いちゃってだめなんです」と、客観的な分析をしてくれました。

一般的に、「不登校の子は感受性が強くて、少しのことで傷つきやすい」とも言われています。
確かに、そういった面はあるかもしれません。だからと言って、ふつうに学校に行っている子が、みんな感受性が鈍いかというと、決してそうではありません。

私がここで言いたいのは、「不登校の子だから何々」「学校に行っている子だから大丈夫」というような、色分けや、線引きはしないほうがいいのではということです。
自分のことでも他人のことでも、決めつけてしまうと、そこで止まってしまって、前に進むことができなくなるからです。

以前も、それから今も、私が不登校の子どもたちに対して抱いているイメージがあります。
それは、不登校の子どもたちは、私にとってはおもしろい存在だということです。

去年、NHKテレビで、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組を見ていたときに、精神科医の斉藤環さんとの話の中で、大田光さんが「ふつうの人は、外へ外へと向かっていくのだけど、不登校やひきこもりは、自分の内面へ内面へと向かっていって、ぼくは、むしろ内面の方が広がりが無限のような気がする」といったようなことを話していましたが、それに通じるおもしろさです。

自分の内面ばかりをあまり見つめ続けていると、わけがわからなくなって苦しくなってしまうことはありますが、外にばかり、モノにばかり向いている人に、私は魅力を感じませんし、話していてもおもしろいとは思いません。(たまになら、いいかもしれませんが……)
感受性が強いというのも、好き嫌いがはっきりしているということなので、メリハリがあって会話も弾みます。

内面を深く見つめる子どもは、また、自分の考えを持っています。
「どう思う」の問いに、自分の言葉で答えることができます。
ですから、話していても、おもしろいし、楽しいのです。

今日はじめて、「家庭塾」に来ている生徒のことを書きました。
これまで、生徒が自分のことを書かれるのはいやなのではないかと思って、なるべく書かないようにしたり、書いても、ぼかしたり、状況を変えて書いていたのですが、「元気な不登校の生徒」が、書いてもいいいと言ってくれたのです。
ちなみに、彼の性格は、「明るすぎる」のではなくて、「明るい」だそうです。



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暴れん坊ママ [アンおばさんの教育ミニコラム]

秋に始まったドラマの中でも、毎朝欠かさずに見ているのが、NHKの「ちりとてちん」ですが、もう一つ楽しみにしているドラマがあります。
それが、毎週火曜日の午後9時にフジテレビで放映される「暴れん坊ママ」です。

このドラマの脚本家が私の好きな大石静さんだったので、最初から期待はしていたのですが、思っていた以上におもしろくて、毎回必ず見るようにしています。

明るくて活きのいいホームコメディーなので、それだけでも十分に楽しめるのですが、何かしら考えさせられるものが含まれていて、それが押しつけがましくないところにも好感が持てます。

前回も、今回も、上戸彩ちゃん扮する「暴れん坊ママ」の ‘あゆ’と、パパ役の大泉洋さんの‘哲’夫婦が、子どもの‘佑樹’を、挨拶の出来る子にしようと苦心する場面があったのですが、見ていてホロリとさせられました。

朝、あゆの父親にトイレを占領されたことが原因で、幼稚園でウンチを漏らしてしまった佑樹が、園児からからかわれたことでプライドを傷つけられ、怒ったはずみで相手にけがをさせてしまうという事件が起こりました。
あゆは、からかった相手が悪いのだから謝る必要はないと言いますが、トイレを占領してしまったことを佑樹に素直にわびるあゆの父親の態度を見て、佑樹は自分から進んで「ごめんなさい」と友だちに謝ります。

「しつけ」という言葉には、親が自分の思い通りに子どもを動かす意味合いが感じられて、私はあまり好きではないのですが、あゆ夫婦からは「ちゃんとしつけなければ」、「しつけてやろう」という気負いが感じられませんでした。

「こんにちは」「さようなら」「行ってきます」「いただきます」「ごちそうさま」などの挨拶言葉はもちろんのこと、「ありがとう」「ごめんなさい」「よろしくお願いします」などの言葉は礼儀の面からも大切だと思います。
けれど、これは親が強制して子どもに覚えさせるものではなくて、あゆ夫婦のように、親が家庭の中で、または他人に対してもそのような態度で接していれば、子どもはしぜんに真似をして、黙っていても出来るようになります。

このドラマで、私が一番いいと思うのは、他人と自分を比較しないあゆの性格です。
佑樹の通う幼稚園は、山の手にある幼稚園なので、園ママたちが見栄を張り合ったり、生活レベルを競い合ったりしています。
そんな中で、あゆは佑機のママハハとして精一杯の子育てをしながら、園ママたちに対してはいつでもストレートでマイペース、他人を羨むことも、自分を卑下することこともありません。

この園ママたちの姿は、テレビの中だけの話ではなく、現実のママ社会をそのまま映し出しているようで、リアルに感じられました。
昨夜の内容には、「見た!園ママ社会のウソ」というタイトルがついていました。
ファッション雑誌に載ったことで他の園ママたちの羨望と嫉妬の対象になって、いい気になっていたある母親が、夫の職業を偽っていたり、ブランド品を身につけるために夜のパート勤めをしていたことが、女王的存在の園ママによって暴かれ、しっぺ返しを受けることになります。

この母親は、夫の職業や生活水準を他人と比較することの愚かしさをわかっていながら、それでも物質的に豊かな人が羨ましくてたまらないと、あゆに向かって言います。
子どものために、ブランド幼稚園に通わせ、子どものために母親自身も着飾っていなければならないと言いながら、実は母親自身の見栄のためだということは、母親本人も自覚していました。

この母親を愚かだと決めつけることは、私には出来ません。
今は、多くの母親たちが、自分や子どもを人並み以上にすることに、興味や関心が向いている時代だと思うからです。
バブルが崩壊して、「金、モノからこころの時代に」と言われるようになって、かれこれ15年以上の月日が流れているのに、相変わらず日本では、お金がある人やモノをたくさん持っている人がもてはやされています。
特に、娘時代にバブルの恩恵を十分に受けていて、現在子育ての渦中にあるお母さんたちは、ドラマの中の母親のように、頭ではわかっていても、なかなか発想の転換をするのがむずかしいように思えます。

それでも、昨日のドラマのように、ハイキング途中で姿が見えなくなってしまった佑樹をあゆが必死で探して、不安と心細さでいっぱいだった佑樹があゆを発見して、あゆの胸に飛び込んで行くシーンなどを見ていると、大切なものは何なのか、しあわせとは何なのかを考えさせられてしまいます。

あゆにとって大切なのは、夫の哲ちゃんであり、ママ子の佑樹であり、男手一つで愛情いっぱいに育ててくれた父親であるに違いありません。
また、ウソをついていた園ママに対して他の園ママたちは容赦しませんが、あゆだけは彼女のことを心配します。他人の痛みがわかるあゆをステキだと思いました。
鼻っぱしは強いし、言葉もきれいとは言えないけど、見栄や世間体には関係なく、ウソのないあゆだからこそ、これから先も佑樹から信頼されるママハハになっていくことでしょう。

今のように競争社会が激化している世の中では、他人と比較しないで子育てをすることは大変だと思います。その中で、母親自身が姿・形の見えないものに追い立てられ、孤立感を募らせていくことも容易に想像できます。
「暴れん坊ママ」の確かな制作意図はわかりませんが、私には、子育てで四苦八苦しているお母さん方への応援も含まれているように思えます。
彩ちゃんママからパワーをたくさんもらえるといいですね。


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ちりとてちん [アンおばさんの教育ミニコラム]

NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を見ていますか。
今回の主人公の喜代美は、明るく前向きなヒロインではなくて、何の取り得もない自分に劣等感をもっている少女です。
がんばっていないわけではないのですが、不器用なために、同姓同名で優等生の清海には何をやってもかなわず、清海の引き立て役にしかなれません。
小学校から高校卒業まで、主役はいつも清海で、喜代美はわき役にしかなれませんでした。学園祭で、照明係りとして、清海にスポットライトを当てたのも喜代美でした。

そんな喜代美が高校を卒業して、推薦で安易に決まった短大に進もうとしたときに、このままの自分ではいたくないと思いました。
「このままではいけない。何かしなければいけない。変わらなければいけない」という思いが、心の底から湧き上がってくるのです。

友だちに言われた言葉も、喜代美の胸に残ります。
誰かのわき役かもしれないけど、自分の人生の主役は自分であるべきだと。
亡くなった祖父の言葉も思い出します。
一生懸命生きていたら、悩んだことも、苦しんだことも、すべてが一緒になって、美しい花を咲かせられると。(セリフはよく覚えていませんが、趣旨はこんな感じでした)

喜代美は、くよくよ悩んだままこの先も生きていきたくない、後悔ばかりしていたくないと、両親に訴え、自分の人生の主役になるために家を出て行こうとします。
喜代美はまだやりたいことが見つかっていません。自分が何をやりたいのか、どこに向かって進んで行ったらいいのかもわかっていません。

今は、喜代美にかぎらず、若者も大人も生き方に迷う時代だと思います。
それでも、喜代美のように、「今の自分ではいやだ。自分を変えたい」と思うのは、若さの特権だという気がします。時間もエネルギーもたくさんあるし、測り知れない可能性を秘めているのですから。
「今の自分」に満足してしまったら、成長もないし、一生懸命に生きることの大変さも、そこからしか得られないと思われる喜びも味わうことが出来ません。
一生懸命生きることは楽ではないし、何度も壁にぶつかって投げ出してしまいたくなることもあるかもしれませんが、その中にこそ楽しみも喜びもあるのだということは、努力してみてわかることです。

中には、努力の意味を履き違えている人がいます。
以前、知人が働いていた一流企業で、社員が派遣社員たちに「僕は、生まれてから22年間も努力して社員になったんだよ」と、涼しい顔をして言ったそうです。
22年間というのは、幼児期から大学を卒業するまで、遊ぶことを我慢して、ずっと勉強してきたということです。
もっとも、今の世の中では、楽をするために、世間体のために、あるいは、お金持ちになることだけが目的で、子どもに勉強を強いる親も多いのかもしれません。
それって、どうなのかなと思います。人それぞれ価値観は違うので、それはそれとして認めるしかありませんが……。

放送大学の「発達心理学」でも学びましたが、子どもだけでなく、大人も、老人になってからでも、人間はいくつになっても成長するようです。
成長をやめた時が、老いるということなのかもしれません。
22年の努力(?)で満足してしまった人は、若くして老いてしまったということなのでしょうか。
私はもう若くはありませんが、「今の自分」から「なりたい自分」に、まだまだ自分を変えていく努力をしたいと思っています。



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完璧な母、完璧な子ども、完璧な先生 [アンおばさんの教育ミニコラム]

昨日の朝日新聞に、「子育て支援に暗雲」というタイトルで、母親が「完璧な母」を意識して孤立感を深めているという記事が載っていました。男性は外で働き、女性は家庭で家事をしながら子どもを育てるという「伝統的家族観」を重視する安部政権のもとで、女性が身動きが取れなくなっているというのです。

今のように、ゆとりのない競争社会で、父親は長時間労働を余儀なくされ、母親は子育ての悩みを誰にも相談できずに、孤立感を深めているというのに、そこへもってきて、「親の子育て責任」を政府から強調されたら、母親は追い込まれるばかりです。
そうでなくても大変なのに、これ以上、完璧な母親なんて求められたら、どうしていいかわからない、という気持ちになると思います。
親の役割として規範意識を身につけさせること、食育の重要性などもあげられていましたが、安部総理の言う「美しい国」と同じように、うわべだけの飾り言葉に思えてなりません。
「いじめは悪いことだから、やめるように」と親から言われたら、子どものいじめがなくなる、と信じているような発想です。

完璧な母親ばかりでなく、完璧な子どもも求められているように感じています。
小学生はともかくとして、中学生になると大部分の学校で、部活が義務づけられていて、子どもたちは文武両道を要求されているからです。
私立の中学はそうでもないと思っていましたが、「帰宅部」というのはごくわずかで、評価されないという話も聞きました。
スポーツが好きで、自分から進んで入った部活ならともかく、義務感で入った部活で、しかも、そこにいじめなどがあったら、子どもはつらく感じるばかりです。顧問の先生が熱心だと、土曜も日曜もなくて、子どもは疲れ切っています。
中には、勉強もスポーツも頑張っている生徒もいるでしょうが、それは心も体も強くて、根性のある子どもです。いろいろな子どもたちがいるのに、一律に「完璧な子」を求めるのはどうかと思います。
私の「家庭塾」にやって来る生徒を見るにつけ、行き過ぎた部活に対して腹立たしい気持ちでいっぱいになりました。

教師にも、完璧さが求められています。
今年の、ある国立大学教育学部の小論文の問題にもはっきりとその傾向が現れていました。
国は、スーパーマンの先生を要求していると感じました。
全知全能の神様のような先生です。嘘っぽいと思いました。
完璧な先生でなくても、生徒の痛みがわかる先生、工夫して生徒を引きつける授業をする先生、それだけでも十分だと思っています。

記事の中では、カナダ生まれの親支援プログラム「完璧な親なんていない」が紹介されていたり、「仕方ない」「その時になったら考えよう」という『「まっ、いいか」と言える子育てをしよう』という本も紹介されていました。

完璧を求める社会は、窮屈で楽しくありません。
本の中にも書いてあるようですが、まじめなお母さんにこそ、意識的に「時にはチャランポランでもいいんだ」「いい加減でもいいんだ」と、思ってほしいと思いました。
完璧な母親なんてどこにもいないし、子育てで真剣に悩んでいるお母さんたちは、それだけでいいお母さんだと、私は思っています。
子どもだってそうです。成功体験は役に立ちません。「まっ、いいか」の精神で、気楽に失敗して、何回でもやり直せばいいのだと思います。



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自閉症の講演会 [アンおばさんの教育ミニコラム]

講演会やシンポジウムからはしばらく遠ざかっていたのですが、久し振りに、「日本子どもソーシャルワーク協会」が主催する「自閉症論の原点」という話を聞いてきました。

不登校の生徒やひきこもりの若者の中に、高機能自閉症(自閉症のうち、知能が平均か平均以上の場合をさす)、あるいはアスペルガー症候群が含まれていることを聞いていたからです。

自閉症が、①人と気持ちを共有できない、相手の気持ちがわからないなど対人関係に障害があること、②言葉を一方的に使い、相手に合わせた会話ができずに、同じ言葉の繰り返しが多く見られるというコミュニケーションの障害であること、③興味や活動が限定的で反復を好む、というおおよそ3つの特徴があり、それが3歳以前から現れていたら「自閉症」と診断されることは知っていました。けれど、別の角度からの話が聞けるのではないかと思ったことが、講演会に出かけた理由でした。

協会では毎年、「不登校・ひきこもり」に関するシンポジウムも開催していますが、そのスタンスに共感できる部分がたくさんあって、自閉症と犯罪少年とを短絡的に結びつけて考える社会とは一線を画した話が聞けると思ったからです。

「不登校・ひきこもり」については、今の子どもの置かれている状況や、その背景にある社会のさまざまな問題には目を向けずに、「学校に行っていない」、「働いていない」、「親に甘えて生活している」という表面的な部分だけを見て、彼らを問題視する社会の風潮に疑問を投げかけています。
講師とシンポジストは、「日本子どもソーシャルワーク協会」の理事長で、ソーシャルワーカーの寺出壽美子さん、児童精神科医の高岡健さん、社会評論家の芹沢俊介さんでした。

講演内容は想像どおり、私が聞きたかった共感のもてる内容でした。
少年が事件を起こして、たまたまその少年が高機能自閉症やアスペルガー症候群だったりすると、障害名だけが取り上げられて、障害ゆえの生きづらさを抱えて生きてきた彼らをそこまで追い詰めたものは何だったのか、彼らに対する周囲のまなざしはどうだったのか、という視点が欠けていたのではないかという点を言及していました。

一番印象に残った内容は、“「自閉症」の人たちの方が人間存在の原点に近くて、むしろ一般人のほうが原点から遠ざかっている”という意見でした。さらに、「不登校やひきこもり」の子どもたちや若者と接していると、ほっとする、癒される、それは彼らがピュアだからという話も出ました。

私は、今の世の中は、自分のことしか考えない人たちが増えていると感じていますが、そういう人たちに合わせられないとしたら、「自閉症」や「不登校やひきこもり」はちっとも悪くないと思います。
むりやりに自分を殺して他人に合わせて生きるのではなく、自分に正直に、素直に生きているとも言えると思います。

医者ではなく教師によるラベリングで、自閉症の子どもたちが特別支援教育に組み込まれ、当事者である子どもや親が傷つけられることも、百害あって一理なしとということでした。

最後になりますが、「自閉症」の人たちに合う教育は、一般の人たちの教育にも役立つという考え方にも、わが意を得たりという思いで、大いに共感しました。自宅でやっている「家庭塾」も「不登校、学力不振の」とついてはいますが、実は、どの子どもたちの能力も引き出すことのできる教育だと信じているからです。
それは、「すること」「出来ること」だけを要求する教育ではなくて、子どもが今、ここに存在するという「ある」を出発点とする教育にも通じると思っているからです。



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